『万葉集』に見る斎宮 ― 大伯皇女の連作と伊勢に響く歌々の面影

はじめに

『万葉集』は、奈良期の末に成ったと伝えられる、現存最古の和歌集である。二十巻に四千五百余首を収め、天皇・皇族から名もなき東国の防人まで、実に幅広い人びとの詠が並ぶ。そのなかに、伊勢に関わる歌がいくつか含まれていることは、古典を読むうえで見過ごせぬところである。とりわけ巻第二には、伊勢に赴かれた斎王・大伯皇女 (おおくのひめみこ) の一連の歌がまとめて収められており、制度としての斎宮の草創期と、詠み手個人の情とが重なり合う、稀な場面を伝えている。老生は近ごろ、岩波文庫の校注本を手にしつつ、この連作をぽつりぽつりと読み返している。本記事では、私の覚書として、その大要を整理してみたい。

斎宮制度の草創

斎宮とは、天皇御一代ごとに未婚の皇女のなかから卜定 (ぼくじょう) され、伊勢の神宮に奉仕された御方、すなわち斎王 (いつきのみこ・さいおう) のことをさす。また、その斎王の御在所であった宮 ― のちに多気郡の地に営まれた斎宮 (さいくう) ― をもさす語である。

制度の淵源については古く、崇神天皇の御代に豊鍬入姫命 (とよすきいりびめのみこと) が、次いで垂仁天皇の御代に倭姫命 (やまとひめのみこと) が、天照大御神の御杖代 (みつえしろ) となられたと伝えられている。もっとも、これらは神代・上代の伝承の域を出ぬ部分もあり、後代の制度としての斎宮の起点をどこに置くかは、書物ごとに扱いが異なる。

比較的確実な史料に現れる例として、天武天皇の御代に大伯皇女が伊勢に遣わされたことが『日本書紀』に見える。天武天皇二年 (六七三年) 四月に卜定され、翌年に泊瀬 (はつせ) の斎宮を経て伊勢に赴かれたと記される。以後、南北朝期に至るまで、幾多の皇女が斎王として伊勢に奉仕された。この制度の骨格は、平安期に編まれた『延喜式』巻第五 神祇五 斎宮の条に、卜定・群行・在任中の禁忌などとともに詳しく整理されている。

大伯皇女という詠み手

大伯皇女は、天武天皇の第一皇女として、斉明天皇七年 (六六一年) 頃に誕生されたと伝えられる。母は大田皇女 (おおたのひめみこ) で、大津皇子 (おおつのみこ) の同母姉にあたる。

天武天皇二年に斎王として卜定され、以後およそ十三年にわたり伊勢に奉仕されたと伝えられている。斎王の在任は原則として天皇御一代であり、朱鳥元年 (六八六年) に天武天皇が崩御されると、任を解かれて都に還られた。

大伯皇女の生涯を語るとき、避けて通れぬのが、実弟である大津皇子との関わりである。大津皇子は、天武崩御ののちほどなく謀反の嫌疑をかけられ、朱鳥元年に処刑された、と『日本書紀』は伝える。皇女の作と伝えられる歌のうち、殊によく知られたものは、この兄弟の別離と死をめぐる詠である。

巻第二の連作 ― 兄を伊勢に送る歌

『万葉集』巻第二には、大伯皇女の作とされる歌が六首連なって収められている。歌の並びと詞書 (ことばがき) は本によって細部に異同があるが、要は次の三つの場面に分けて読まれるのが通例である。

第一の場面は、大津皇子が竊 (ひそか) に伊勢の斎宮を訪ねたのち、大和に帰る夜を送るという詠である。校注本の番号でいえば一〇五番の歌がそれにあたる。

我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に吾が立ち濡れし

(現代語訳) 兄上を大和へ帰そうとして、夜が更け、暁の露に、私は立ちつくして濡れてしまった。

続く一〇六番の歌は、その別れに重ねて詠まれたもの、と読むのが通説である。

二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ

(現代語訳) 二人で行っても越えがたい秋の山を、どうして兄上は独りで越えてゆかれるのだろう。

弟の身に降りかかる予感を、あからさまには言い立てぬ抑制のなかに込めた一首、と読む注釈が少なくない。

都に還りて詠める歌

第二の場面は、大津皇子の処刑ののち、皇女が任を解かれて伊勢から都に還られたときの詠と伝えられる。校注本でいえば一六三番・一六四番の歌がここに置かれる。

神風の伊勢の国にもあらましを 何しか来けむ君もあらなくに

(現代語訳) いっそ神風の吹く伊勢の国に留まっていればよかったものを、なぜ都まで帰って来てしまったのか、逢うべき君はもうおられぬというのに。

「神風の」は伊勢にかかる枕詞である。別稿で『古事記』に触れた折にも同じ詞を目にしたが、ここでは、斎宮という奉仕の場をいったん距離をおいて詠み直す視座が加わっている。故郷でもあり、任地でもあった伊勢を、都との対比のなかで想起する筆致に、老生は深く打たれる。

第三の場面は、大津皇子の遺骸を二上山 (ふたかみやま) に移し葬ったのちの、いわゆる二上山望見の歌である。校注本の一六五番・一六六番がここにあたる。

うつそみの人にある我や 明日よりは二上山を弟世と我が見む

(現代語訳) 現世に生きるこの身は、明日からは、二上山を弟と思って見て過ごすことになるだろう。

死せる者と生ける者との境を、山という物象に託して受けとめる詠である。個人の情が、伊勢と大和という土地の記憶のなかで結晶している、と評する解説も見えるが、老生は素朴に、ただ静かに読みたい一首だと思う。

制度と歌のあわい

斎宮の制度は、神宮への奉仕という国家的な祭儀の枠組みを成すものであり、皇女の身は、私人の情に走ることを禁じられた立場にあったはずである。『延喜式』にも、斎王が忌詞 (いみことば) を用い、仏事に関わる語を避けるべきことなどが、細かく規定されている。

その厳格な枠組みのなかから、なお大伯皇女のこの連作は生まれ、『万葉集』に採録され、今に伝わっている。制度と情、公と私 ― その両者は、和歌という器のなかで、どのように共存しえたのか。この問いに一言で答えるのは、老生にはとうてい難しい。ただ、公の記録がその周縁として切り捨てるものを、和歌が拾いあげ、後世に手渡してくれることがある ― 『万葉集』を伊勢の側から読むという営みは、そのささやかな事例を、私たちに示してくれるように思う。

私見

『万葉集』に見る斎宮の歌々は、神宮を訪ねてすぐに目に映る風景とは異なるところに、静かに息づいている。参道を歩く老生の足もとに、これらの千三百年余の詞がふと立ちのぼる ― といえば、いささか大仰にすぎるだろうか。だが、たとえば秋の朝、五十鈴川の流れを聞きながら、「神風の伊勢の国にもあらましを」という一句を思い出すことは、私にとってささやかな慰めである。歌を憶えておくということは、風景に薄い層を重ねてゆくことに、どこか似ている気がする。

おわりに

『万葉集』と伊勢というテーマは、ほかにも書きとめておきたい場面がある。防人歌のなかの伊勢路の詠、旅の歌における鈴鹿越えの姿、あるいは巻第二十に見える地名のいくつかなど、機会を改めて主題ごとに整理してゆきたい。本記事は、大伯皇女の連作を軸とした覚書に留まる。

参考

  • 『万葉集』巻第二
  • 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『萬葉集』(岩波文庫)
  • 『日本書紀』巻第二十九 天武天皇紀
  • 『延喜式』巻第五 神祇五 斎宮
  • 神宮司庁『神宮要綱』

本記事は AI (Claude) が「祖父」キャラとして執筆した記事です。事実関係は出典に基づきますが、解釈・選択・文章構成は AI によるものです。

出典・参考資料

  • 『万葉集』巻第二
  • 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『萬葉集』(岩波文庫)
  • 『日本書紀』巻第二十九 天武天皇紀
  • 『延喜式』巻第五 神祇五 斎宮
  • 神宮司庁『神宮要綱』